グールドのエディティング


   『レコーディングの展望』は‘66年グールドが34歳の時に書いた著作で、当時の時代の状況と彼のラディカルさを知る事ができておもしろい。ご存知の通り、彼はレコーディングというテクノロジーの持つ、記録の保存という単なる意味をこえさせ、編集とプロセス技術の可能性にいち早く目をつけてそれをアートの段階にまで進めた最初のアーティストである。特にすごいのは、録音後の思考と作業であるエディティングに関する事で、前述の著作の中でそれについて具体的にバッハの平均率第1巻イ短調フーガを例にあげて説明しており、彼のその美学ぶりが窺える。
   
…テイクは全部で8つあった。そのうちテイク6とテイク8がよく、通しでミスもない
    しどちらにするか決めかねていた。テイク6はいかめしくレガートで壮麗で、テイク8              
    は反対にフーガの主題がスタッカートに弾かれ、陽気な感じのものだ。一方のゲルマン         
    的な厳格さも、他方の大げさな喜びもベストにこの曲を表していない…とふと、この2
    つのテイクは偶然にも同じテンポであり、編集が可能だと気がついた。で、このフーガ
    をテイク6で厳かに始め、中心部の転調の気分転換の感じを出すため、提示部の終わり     
    の所で活気のあるテイク8にエディットし、そして再現部でまたテイク6の渋さに戻っ
    たらどうだろう!結果は、録音後の思考という武器を利用する事で、生の演奏ではあり
    えない、ある種の枠をこえた、イマジネーションあふれるものとなった。…

  これが書かれたのが‘66年だという事を考えると、グールドがいかに時代をこえて彼独自だったか、びっくりだ。この当時主流だった考え方―編集はミスを直すためのもの、必要だから行うもので避けるにこした事はない―に対して、グールドはエディティングに受け身ではない肯定的な意味、音楽の創造性の新しい可能性を開く道具という価値、を与えた最初の人だろう。彼のプロデューサー(録音終了後はすべてプロデューサーまかせにする演奏者が今でも多いが、グールドは全部自分で決定)を長年務めたAndrew・Kazdinはこう言っている。
   
…グールドにおいてエディティングはミスを直すためだけのものではなく、その曲をな   
    している輪郭を描く様使われた。つまり、その曲の解釈というものが色々なテイクの並
    置の中からのみ明らかになるのですよ。…

  こういった純粋に音楽的理由による編集がどういう形で現在行われているかは、作業がレコード製作の極秘である上、それがプロデューサーの美的感覚と密接に結びついているため正確にはわかりにくい。そこで私が現在制作中の自分自身のCD、スクリャビン:法悦の詩ピアノ版を例にとると、まず冒頭でテイク3のけだるさと対照的に気違いじみた?を描く為、テイク2が挿入された。テイク3の物憂げな感じとテイク2の健康的な力強さ  をエディットする事で狂気をよりはっきり描けるからだ。こんな風に、この曲へのほとんどの努力は私自身の音楽的価値観により、私の頭の中の音のイメージの達成に払われた。これは私自身が演奏者とプロデューサーを兼ねているからであって、もしこれが他の価値観を持つプロデューサーの手によったらどうなるの?今日1枚のCDで100個の編集だったら超少ない方で、多いものは300個をこす。それを操作する側の美的感覚によってどんなに違ったCDが可能か想像してみて…

  まあこの類の、編集作業自体に対する論争というのは昔からあった様で、『レコーディングの展望』が書かれた時代、スプライスは(当時編集は、スプライスという文字通りナイフでテープを切り接着させる作業だったそーな。コンピューターデジタルの今からすれば大変だった訳で、それに要する時間と労力、またその割に不正確な結果しか出ない事を思えば、こんな意見があったのも仕方ないかっ)記録の保存からすればモラルに反し不正直でごまかしで、その使用は演奏の全体の建築的構成を損なうものだから、絶対に避けるべきである、というものだったそうな。
  さすがにこれは‘66年の話であって、グールド晩年の頃にはデジタルが出現して時代もまるっきり変わった…のだけど、今日でもこういう古い風潮―不必要と思われるエディットや新しい工夫を非人間的と感じ、ベーシックテイクを選んだら必要な修正以外はさける、安全指向―はクラシックCDのプロダクションでは根強く、メジャーな考え方だ。

  だが他方でこのオーソドックス派と正反対なプロデューサー達がいて、グールドも予想しなかっただろう編集作業を行っている。エディティングは可能な限り推奨、顕微鏡サイズで音を吟味、簡単な曲でも1小節に1〜2回の編集は必須、完璧なCDという製品を作るため演奏家を支配する正にマシン派だ。「スプライス」時代からすれば、編集がコンピュータによってより速く簡単に正確に行える様になったデジタル時代の落とし穴とも言える。
   
…避けられない事だが、演奏家と編集者の役割が重複しはじめた。実際、前述のイ短調
    フーガの様な決定について、どこまでが演奏者の権限でどこまでが編集者に属するもの
    か、聴く人には判断不可能だろう。…

  グールドが指摘している様に、演奏家とプロデューサーの役割の境界線をどこでひくかの問題点が今日浮上しているとも言える。双方の音楽観が一致しない場合、どこまでプロデューサーは演奏家を調理するのか、逆に演奏家はどこまでプロデューサーに立ち入らせるのか。単なる記録としての録音をこえアートの可能性を広げた編集作業だけが暴走していないか。
   
…よいスプライスはよいラインを創る…

  グールドが演奏会をやめて録音に専念した本当の理由は何だったんだろう?


― うーん、これを書いたのは確かもう、10年近く前(?)にもなるので、今から見るとかなり情報に間違いがあったりする。。(スミマセン)例えば、現在発売されてるクラシックCDでエディティングの数が1枚につき300くらいだったらレパートリーに勿論よるけどたぶん普通なほうで、多いものは1000を超すでしょう…で、確かに、演奏家にしか判断できない「エディティング」の意味っていうのは、結局どういうものを音楽的に創っていきたいかという意図にかかわってくるからで、そこのとこがプロデューサーとの関わり方次第で変わってくる。で、1000を超す編集を実施してるのは (文中のように)プロデューサーではなく、演奏家のほうだったりするんですねえ。クラシックのCD市場というのは世界的にちぢみっぱなしで現在ではメジャーレーベルといえども予算が苦しいところが多いので、1000を超す編集作業というのはこれも数年前ごろの話で、今ではかなりまれなケースだと思う。現在ではクラシック業界のサバイバルとして多種多様なかたちがあり、いわゆる価格破壊の結果としてバジェットCDはプロダクションコストが押さえてある結果、エディティングの数字やコンセプトはこれまた全然ちがう話しになってしまう。エディティングに限らず、録音のポストプロダクションはかなり重要で、ミキシングやマスタリングの感じで演奏そのものが全く違ったものになってしまうんです。こういうことを突き詰めるとかなりおもしろいので、そのうち「エディティングの美学」という文章にしてみようと思いつつ、時間がまったくなくてまだ手をつけてないんです…―