「独断、こだわりのディスク・ベスト3」

1.ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死 フルトヴェングラー/BPO  1942年11月録音盤 

2.武満徹:ノーヴェンバーステップス 
小沢征爾/サイトウキネン 鶴田錦史(琵琶) 横山勝也(尺八)
 
3.シューマン:子供の情景 アルフレッド・コルトー(ピアノ)
1935年7月録音盤

 

学生の頃は何を隠そう、大変なワグネリアンだった。それまではブラームスなど古典的かつまじめに聞いていたのが、ある日、トリスタンを聞いて仰天し、繰り返し聞いては毎日泣いた。音楽にこんなにも人を動かす力があるのかと思い、指輪他ワーグナーのすべての楽劇を聞いたがやっぱりトリスタンのうねうねと解決しない和声に夢中になった。最初にトリスタンに出会ったのは、FMで放送された、フルトヴェングラー/BPOによる前奏曲と愛の死の演奏で、それがフルトヴェングラーのどの音源のものだったか今になっては定かではないが、現在発売されている5枚から選ぶとしたら1942年のライヴ録音だろう。フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9のものすごい演奏をはじめとして、彼はライヴでなくちゃ生きない。バレンボイム/バイロイト祝祭管/ルネ・コロの路線もあれはあれで好きだったが、フルトヴェングラーの発するワーグナーの強烈なエネルギーは、私の音楽に対する考え方のひとつの重要な原点を形成することになった。
 
疾風怒涛のごとき音楽への”思い”入れ濃かった学生時代、さて演奏で実際にどう音として表現すべきかで随分悩んだ。演奏というのは他者という第3者が存在して初めて成り立つもので、他者に認識させるという行為こそが演奏に他ならない、ということは自分で自分を認識し直し他者に提示するという動作こそが演奏に求められるのであって、単に音楽的であるということではすまされないはずだ…….

 そんななかで出会ったのが武満さんのノーヴェンバーステップスだった。本当に新鮮で驚愕した。西洋と東洋といった比較は今ではもう論じ尽くされた感じさえするけれど、当時の私にはまだまだ未知の世界だった。西洋楽器音は音楽脳で処理されるのに対し、日本人の脳は邦楽器音を左脳でとらえるという事実、自然音や単一音への没我的無念無想の日本人的感性。ノーヴェンバ−ステップスの録音は3枚あるが、小沢/サイトウキネン盤がベストだ。その辺がより深く味わえる。三味線、琴、地歌端唄などたいへん達者だった祖母を思い出し、その他者を前提としない音の捉え方と、自分のやっている西洋音楽での演奏という概念の差に改めて思いあたった。

 それでは自分の音を現実にどう探していけばよいのか。その答えの大きな啓示となったのがコルトーだった。あの強烈なルバート、語り口、即興的節回し、話し掛けるようなトーンは、まだ自分を探している段階の私に異様なインパクトを与えた。まだそれから長い道のりがあったけれど、乳白色とでも形容できそうな独特の音色とルバートは今でも心に染み付いている。子供の情景の終曲「詩人は語る」は、私にとってはあのコルトーのピアノなしには考えられない!録音というもののコンセプトがまったく現代とは異なっていたフルトヴェングラーやコルトーの時代だが、もし彼らをそのまま現代に連れてきて録音することができるとすれば、いったい自分はプロデューサーとしてどんなプロデュースをするべきだろうか、と考えると、なかなか難しい。演奏の歴史と録音技術の進歩発展とは相互に関わり合っていて解きがたい、ということか。録音の新しい意義と可能性を信じて活動をしている私が昔の演奏家を敬愛しているのは矛盾か、または?